俺がちっちゃい頃、親父が憧れだった。




俺が自分でお店を持ちたい理由は何かと聞かれれば、この憧れがきっかけだと答えるだろう。

親父は一級建築士でした。

田舎ですが、レジャー施設や空港の建設にも携わったり、テレビに出てくるような政治家と知り合いだったり
小学生くらいの俺には眩しすぎる存在であり
でかい背中がめちゃくちゃカッコよかったんです。

学校が休みの日には建設予定地に測量について行ったり
ピカピカの高級車で、ドライブがてら
釣りに行ったり
まさにバブル時代を謳歌した、建築事務所の社長でした。

飲む打つ買う

お金なんか勝手に湧き出ると言わんばかりに
来る日も来る日も、贅の限りをやり尽くしていたと思います。

そんなバブルがいつまでも続くわけもなく


「取り引き業者が不渡りを出した」
当時、全然意味がわからなかったけど
このセリフを何度も聞きました

とんでもない負債を抱えてたと思います。


母親とも離婚し、たまにかかってくる電話は
金の無心ばかり
親戚中から借金して
母親も自責の念から鬱を患い

次第に親父とは距離をおいていきました。


過去の栄光にしがみついていたのか
プライドの高さゆえか
親父はいつまでもフラフラと
職探しもせず
わずかな種銭でパチンコばかりしていました。


62歳くらいになって、ようやく
某大手ファーストフード店で
シルバー枠の契約社員みたいな形で
働き始めました。


話には聞いていましたが
どうせすぐ辞めるだろうし
全然信用していませんでした。

月日は流れて約10年。

墓参りで田舎に帰省していた時
夕方から親戚の集まりがあり
親父を職場まで迎えに行きました

その大手ファーストフード店の駐車場から
店内の様子を眺めていると
70を過ぎた親父が
若いスタッフに負けず劣らず
テキパキと作業をこなし
周りに笑顔を振りまいていました。


駐車場で、込み上げてくる物があり
堪えきれずに涙を流しました。

嬉しさと、尊敬と、懐かしさと
色々な物が入り交じった感情でした。


そしてその親父は
昨年の7月、末期の胃癌で
永眠しました。

最後は、別れた母親と
僕の兄貴と、僕に看取られて。


親父の職場には退院は出来ないかもしれない
とだけ伝えていて
訃報は伝えていませんでした。


最後のお別れの日
お通夜の会場で、親族が集まり
昔話に花を咲かせて
献杯をくみかわしていました。


翌日の告別式で、スタッフの方に呼ばれました
お父さんの職場の方が来られてますと。


会場の入口に行くと、親父が働いていたお店の
店長と
スタッフさん達約20名が
喪服姿で並んでいました。


チェーン本部に連絡を入れて、人員確保して
皆で参列に来てくれていました


もう、本当に
恥ずかしげもなくその場で
号泣してしまいました。


粋な計らいに感動したのと
親父に最期に
男とはこうやって生きて行くんやでって
ほんで、こうやって死ぬんやって

教えてもらった気がして

しばらく涙が止まりませんでした。






俺も何の因果か
ギャンブル依存症になってしまい
どうしようもなく遠回りしてしまいましたが


今、改めて

諦めかけていた事に
挑戦しています。


前を向いて生きて
死ぬ時は沢山の人に
名残惜しがられ
涙してもらえるような人生にしたいです。